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PROFILE

1983年度ドラフト会議にて阪神タイガースから1位指名を受けて入団。
1984年には、一軍公式戦33試合に登板。ジュニアオールスターゲームにも、ウエスタン・リーグの選抜メンバーとして出場した。
1985年には、「バックスクリーン3連発」で知られる4月17日の対読売ジャイアンツ(巨人)戦(阪神甲子園球場)で、9回表無死から登板。
ウォーレン・クロマティと原辰徳からの2者連続本塁打で1点差に迫られた福間納の後を受けての登板だったが、後続の打者を2者連続奪三振を含む三者凡退に抑えたことで、一軍初セーブを挙げた。
この試合を機に、従来からのクローザー・山本和行との「ダブルストッパー」として活躍。
山本がアキレス腱の断裂で戦線を離脱した9月以降は、1人でクローザーの重責を担った。
10月16日のヤクルト戦(明治神宮野球場)では、同点の9回裏から登板。
チームが勝つか引き分けるかで21年振りのセントラル・リーグ優勝が決まるという状況で、ヤクルト打線相手に2イニングを完璧に抑え、最後の打者・角富士夫をピッチャーゴロでアウトに仕留めて「胴上げ投手」になった。
結局、レギュラーシーズンでは11勝19セーブの好成績を挙げた末に、リーグ最優秀救援投手のタイトルを獲得した。
1986年・1987年には一軍公式戦61試合、1988年には46試合に登板。1986年・1988年に8勝を挙げるなど、引き続きクローザーとして活躍した。1987年・1988年には、チームが低迷する状況でオールスターゲームへの出場を果たしている。
1989年には、シーズンの途中から先発に転向。一軍公式戦通算で10勝5セーブを記録するとともに、先発投手として2試合で完封勝利を挙げ自身最初で最後の規定投球回数もクリアした。
1990年には、初めて一軍の開幕投手を任されると、開幕戦で完封勝利を収めた。しかし、シーズン途中に右足首の故障で戦線を離脱した
1992年からはクローザーに復帰。1995年まで、一軍公式戦で4年連続30試合以上に登板した。
1996年に阪神での最終登板になった10月9日の対中日ドラゴンズ戦(甲子園)では、この試合を最後に現役を引退する木戸克彦とのバッテリーで、先発投手として中日打線を14球で三者凡退に抑え、ユニフォームを脱いだ。
1997年から2003年まで、朝日放送・サンテレビジョンの野球解説者・日刊スポーツの野球評論家として、阪神の地元・関西地方を拠点に活動した。
現役時代の主力打者だった岡田彰布が阪神の一軍監督に就任した2004年に、一軍投手コーチとして同球団に復帰。
高校の後輩・藤川球児をセットアッパーとして大成させたほか、ブルペン担当コーチとして、JFK(ウィリアムス、藤川、久保田智之)やSHE(桟原将司、橋本健太郎、江草仁貴)と称されるリリーフ投手陣の整備で大きな成果を残した。
その実績を買われて、2009年からは、二軍投手コーチとしてファーム投手部門の強化に尽力した。
2013年から阪神の一軍投手コーチに復帰。チームの2014年クライマックスシリーズ初突破と日本シリーズ進出に貢献した。
2015年限りで、コーチを退任した。
コーチ退任後の2016年からは、朝日放送・サンテレビ野球解説者・日刊スポーツ野球評論家としての活動を再開している。
2018年夏の第100回全国高等学校野球選手権記念大会では、8月14日の第1試合前に甲子園レジェンド始球式へ登場、真ん中低めのボールを放り投げスタンドの観衆を沸かせていた。
現在は野球指導者・解説者・評論家として活躍中。

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